石垣政裕(MELON理事) 2007/4/18掲載   滝桜のまちを観る   写真はこちらをクリックしてください

 9:02分発の列車に乗ろうとJR南仙台駅にあわてて駆け込む。目の前に列車がもう到着、格安の土・日きっぷを買うには間に合わない。「無札券」だけもらってホームへ出た。
 朝起きて、ボーッとした頭でスケジュールを確かめる。「滝桜」か「ひと目千本桜」か・・・。「タキザクラ」の方が異国情緒的な音がいい。何となく、江戸時代の横浜にあがった欧米人の響きがある。軽いザックに読みかけの本を3冊入れて、ローカル列車で読書の旅がはじまった。普通列車といえども昔と比べて隔世の感がある。振動もなくなり、ボックスシートなどとてもいい読書室になる。おそらく往復で3冊は読める。そういうことだけは、短時間の間にちゃっかり計算していたのだ。
 この日サクラはほとんど咲いていなかった。そこで、一週間後にまた同じスタイル、スケジュールで出かけていった。したがって正確には、花の咲いていない1回目の散歩の「散歩道」である。2回目はもう桜の花に浮かれっぱなしなので、写真だけを載せることにしよう。

   福島で郡山行きに乗換え。車掌さんは目的地に着いたら、見切り発車で買えなかった2400円の「小さな旅ホリデー・パス 南東北エリア」・・・ううむ『小さな旅』か。JRだけに乗せるのがうまい・・・が手にはいるように手配をしてくれた。わざわざ電話までしてくれた車掌さんにはただただ感謝あるのみ。
 郡山で磐越東線のワンマンカーに乗換。乗客みんなサクラを観に行くのではあるまいが、いで立ちはどうも「その」格好だ。年齢も高い。三春駅は始発から二つ目の駅。意外に早く到着する。駅は街の中心を少し外れたところにあるので、中心地まで歩いていくのもいい。花見の時期は乗り降り自由のバスが走っている。車で行って、さっと帰ったり、首都圏から来たのだろうなぁと思われる人たちのように、「バスが来ない」「なんで直ぐ発車しないの」とまわりをはばからず口にする必要もない。

 みてるだけで楽しくなり、ついつい「読んで」しまうイラストのマップを手に入れ、歩き始めよう。すぐ横道に「愛姫」の名のついた小さな商店街がある。ゆったりとした坂道を日ざしを感じながら歩く。そうか、仙台とゆかりが深いんだ。三角あぶらげを買ったり、コロッケを歩きながら食べたり、ぶらぶら歩くのもいい。「いつもはもっと遅いんですが、この天気が2・3日続けば咲きますよ、きっと。」とおばさんが話してくれる。ここの人たちは、よそから来た人も、気持ちよく応対してくれる。中学生たちに挨拶をしたら、しっかり挨拶を返してくれる。それだけで、楽しくなる。
 いくつかのお寺の境内に入り込んでは、つぼみも堅い桜の樹を見つけて「咲いたらみごとだろうなぁ」と少し冷たさの残る春の空気を吸い込む。
 それほど大きなまちでないが、もう、さくらを待つ準備ができている。ところどころで立ち寄る喫茶店は、おいてある本や売り物もすべて、「桜づくし」なのだ。コーヒーは紛れもなくおいしい。「春爛漫の三春でコーヒーを!」などと訪れる時期がぴったりならシャレたくもなる。ある「まちづくり」に詳しい方の話では、三春町は道路や施設を作るときにはかなりモデルになるような町作りをしているというのだ。だからほんとうは、町の人々のいろいろな活動が見えるのだが、ぐっとがまんして今日の話は桜に絞っておこうと思う。
 にぎやかな街の中心部から滝桜までは6〜7kmぐらいある。開花時期は専用のバスが運転されるので、車で行く必要はないはずである。私たちは、ちょうど谷間の日に遭遇したらしく、バスが走っていなかったので、タクシーを拾って現地に行く。まるで、桜フリークである。

 おおっ、「タキザクラ」は畑の斜面に確かに幽玄な姿を見せていた。1000年もの歴史をもつベニシダレだそうだ。千年かぁ、ついつい拝んでしまいたくなる。全く咲いていないというのに、次から次へと見物客がくる(一週間後は8分咲で、ちょうど見頃だったが、その花の数ほど見物客もいた)。
 帰りは駅まで歩くことにした。また、あのコーヒーが待っている・・・そう思うのは私だけ。街道を歩いていくといろいろなものを見つける。滝桜の子どもたる紅枝垂桜(ベニシダレサクラ)があちらこちらにある。雲行きを気にしながら、行き交う人たちと挨拶を交わすのもうれしい。丘陵地を3つぐらいだろうかアップダウンしながら駅への道をのんびりと歩く。高校生が部活の帰り列車を待つ駅舎の中、地元の人たちが出す店で干し大根をみつけて買う。戻して煮付けるととてもおいしいのだ。私たちは、「三つの春と出逢ってみませんか」と大きく書かれた三春町のポスターと無理して分けてもらった歴史民族資料館のイベントのポスターを大事に抱えて、帰りの列車に乗った。ポスターに書かれた三つの春とは「梅」「桃」「桜」のことらしい。じっと春を待ち望んだ東北の人へのご褒美なのだろう。でも私たちが出逢った三つの『春』は「ちいさいがどこかわくわくさせてくれる まち」と「なにげないあいさつで こころをなごませてくれる ひとたち」と「短い春を、それらと張り合うように、負けないように咲くだろう、訪れる私たちを楽しませてくれる さくら」の「まち」「ひと」「さくら」だったと本気に思っている。


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