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2月のテーマ「日本は京都議定書の目標を達成できるのか?
日時 2007年2月16日(金)18:00〜20:00
場所 フォレスト仙台5F 501会議室
Report/RNECS 丸山浩司
 今回のクラブフォレストでは、ストップ温暖化センターみやぎとの合同企画でした。
 ストップ温暖化センターみやぎの長谷川センター長をお呼びして、「京都議定書」に関して気になるあれやこれについて、さまざまなお話を聞かせていただきました。
 実際には、「京都議定書」について簡単に紹介したあと、長谷川センター長への質疑応答という形式で意見交換を行いました。今回のレポートでは、意見交換で行われたやり取りをいくつか紹介させていただこうと思います。すべて紹介できなくて念ですが、普段知ることのできない貴重なお話ばかりでした。
★京都議定書について知りたい方はこちら
 「京都議定書」とは?
 1992年に採択された「気候変動枠組条約」に基づき、1997年に京都で締結された公的文書です。
温室効果ガス気候変動が及ぼす悪影響を防止することを目的に、「気候変動枠組条約」が指定する先進国(附属書T締約国)は、2008〜2012年の間、それぞれに課された温室効果ガス排出量削減の数値目標(1990年基準)を達成しなければなりません。
 2001年にアメリカが離脱したことにより、発効のめどが立たずにいたが、2004年にロシアが批准し、2005年2月16日、京都議定書は発効しました。
■日本の排出量が削減するどころか増えているのはなぜ?
 日本の温室効果ガス排出量は、2004年時点で基準年(1990年)よりも8%増となっています。中でも、業務部門(オフィスビルなど)からの排出量と家庭からの排出量は30%以上増えています。
 その理由の一つとして、オフィスビルや世帯の絶対数が増えたということがあります。
 オフィスや各家庭での省エネは進んでいるのですが、例えば世帯数が増えれば、その分だけ冷蔵庫やエアコンなどの基本的な家電製品の使用も増えることになり、そうやって増えたエネルギー使用量が省エネ分を超えてしまっているのです。
 少子高齢化により、日本の世帯数はさらに増えるだろうと言われていることもあり、この問題は京都議定書の目標達成への大きな障害となっています。

■ドイツが大幅な削減に成功したのはなぜ?
 ドイツは2003年時点で、温室効果ガス排出量を基準年(1990年)の19%減らすことに成功しています。
 それは、基準年の1990年当時、東西ドイツはまだ統合していなかったため、その年の温室効果ガス排出量には、旧東ドイツのエネルギー効率の良くない数値が含まれていたという理由があります。
 また、それだけでなく、「京都議定書」に賛成を表明していた社会民主党やみどりの党が政権を担い、環境政策に力を入れていた時期があったこと、石炭から石油、バイオマスへのエネルギー転換やコージェネレーションの普及によりエネルギー効率が上がったという理由もあります。

■「京都メカニズム」はどうしてできた?
 日本も目標達成のために活用を計画している「排出権取引」や「クリーン開発メカニズム」ですが、これらのシステムを提案したのは、実は元アメリカ副大統領アル・ゴアでした。経済成長を優先しようとするアメリカに京都議定書を受け入れさせようと、国外の排出削減量を目標値に入れることができるようにした妥協案のようなものだったようです。
 ところが、結局アメリカは京都議定書から離脱し、「京都メカニズム」は形だけが残ることになりました。「京都メカニズム」の是非については、さまざまな議論が交わされています。

■数値目標を達成できなかったらどうなる?
 日本の温室効果ガス削減量の数値目標は6%ですが、現時点では減らすどころか増えていて、目標達成は難しいだろうと言われています。それでは、目標が達成できなかったらどうなるのでしょう?
 実は、達成できなかったときの罰則などはまだ決まっていないのです。また、「京都議定書」では2008〜2012年の削減目標を定めていますが、2013年以降どうするのかということもまだ未定です。
 削減目標は達成されなければなりませんが、「京都議定書」が「錦の御旗」という訳ではなく、温暖化対策については、まだまだ議論を続けなければならないようです。
■京都議定書が発効するまでの10年で各国は何をしていた?
 温暖化対策のために、各国はもちろんさまざまな努力をしてきました。しかし、国際的でしかも具体的な数値目標まである「京都議定書」について、「目標達成を実現しよう!」という動きを盛り上げることになかなか取り組めて来られなかったのではないでしょうか?10年前にできたものなのに、つい最近になるまで「京都議定書」が大々的に取り上げられることはあまりなかったように思います。
 実は、「京都議定書」ができた1997年当時は、それに対する評判はあまりよくなく、実現すべきものとして注目されることはなかったようです。それが「守るべきもの」として脚光を浴びるようになったのは、皮肉にも2001年アメリカが議定書からの離脱を表明してからだそうです。
 国際的に足並みをそろえて計画的に地球温暖化対策を行っていく第一歩という意味で、「京都議定書」は「守るべきもの」としての価値が出てきたのではないかと感じました。

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