震災後の状況(2011年7月): |
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所在地多賀城市新田字上河原(住所は多賀城市ですが、仙台市と多賀城市の境) 水系七北田川 周囲のようすここは、多賀城市水道局の浄水場があったところで現在は廃止しています。中野堰は蒲生堰とともに七北田川最後の堰で、潮留堰でもあります。つまり、津波がここまで到達すると予想されるところです。ここから取水した用水は七北田川左岸沿いに流下して、福室、高砂、中野方面の田んぼを灌がいしています。現在は多賀城市高橋と山王の間には少し田んぼがありますが、仙台市部分は開発のためにほとんどありません。 言い伝えこの水神碑は明治8年8月20日建立で願主は中野村、高橋村、福室村の代表と記されています。記載された3村は現在、中野村と福室村が宮城野区、高橋村は多賀城市と分かれていますが明治初期のころは同じ宮城郡内の独立した村でした。 ひでりの時にはこの3村はもちろん、蒲生、高砂村の人々も泉ヶ岳まで傘と白装束の姿で雨乞いに行きました。また、泉区上谷刈の三共堤の築堤工事には1万人からの村人を送って工事に当たったそうです。夏の水田に水が必要なときは三共堤より七北田川本流に流してもらい、下流の薄が沢堰や中野堰で受けて灌がいしたそうです。ひでりの時の水騒動の話もたくさん伝わっています。 見どころ流域の人々にとって七北田川は命綱だったことを感じさせてくれる碑です。しかし、宅地化により田んぼがなくなり2008年には高砂地区からの配水要請は三共堤に対して一度もなかったそうです。魚遡上(そじょう)のモデル河床が作られ、秋には鮭の遡上が見られます。また、近くには七北田川の旧名を名前につけた冠川神社(かむりがわじんじゃ)があります。 |
中野堰水神碑 堰の落差は2m程 魚道モデル事業の看板 |